『遍照十方』へんじょうじっぽう 十方世界を慈悲の光で照らすの意。 |
大木家は、戦国の世は筑後の国の豪族蒲地党に属した大木城主(福岡県山門郡瀬高町大字大広園字北大木)であって、天正十二年(1584年)竜造寺隆信の子政家に従っていました。この時の城主を大木兵部允知光といい、佐賀に属するようになってから鳥栖市瓜生を領していましたが、豊臣秀吉の九州平定後の国分けで郷土の横田村一帯の領地を代地としてもらいました。後に西往寺を菩提寺としたのです。 大木家は明治の元勲大木喬任・遠吉(司法大臣)父子を出し、ことに喬任は万人共学の新学制を膨大な数字の予算の下に実現して、国民の識字率向上の足がかりを作りました。 |
佐賀県藩士大木知喬の長子。通称幡六のち民平と改名。明治維新が到来すると、江藤新平とともに東京遷都を主張し、建白の功により東京府知事に就任。明治四年民部卿。民部省廃止後は文部卿に任じ、翌年には教部卿を兼任しました。山口、熊本の乱の平定とともに現地へ行き、処刑判決の任務を遂行。明治十七年伯爵、同十八年元老院議長、同二十二年枢密院議長を歴任。同二十三年、山県内閣の司法相、同二十四年松方内閣の文相に親任。同二十五年には枢密院議長に再任されました。 |
大木喬任の墓 | 大木知光の墓 | 大木伯爵家の墓 |
明治22年の碑文 |
大木家先祖の位牌 |
中庭 | 納骨堂 | 西往寺墓地全景 |
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